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クズリ通信

子育ての記録、人間関係論、シンプルな生活などについて。

自分で書いたブログが面白くないと思った時に

ブログを書きながら、
「私の記事を読んでくれた人は、この記事を面白いと思ってくれるだろうか」
と疑うことはありませんか?。

 

私はあります。読み返すと面白いと思えず、こんな記事をアップして世の中に意味があるのだろうか、などと悩むこともあります。

 

ところが、アップして数日して読み返すと、意外に悪くありません。このブログでは子供の夜泣きでどう困ったのか書いたことがありますが、書いた直後には書くことで四苦八苦して無味乾燥に思えたのに、数日して読み返した時には、夜泣きで困った時期の記憶が鮮明に蘇ってきました。

 

感情をかき立てられるものならば、その記事は少なくとも、無味乾燥ではないでしょう。

 

以前テレビで観たある新人お笑い芸人のインタビューを、ふと思い出しました。

 

その新人芸人は「新ネタを作って舞台で披露する時は緊張する。笑ってもらえるかどうか不安になる」と語っていました。その不安は、録画された自分のネタを見返しても同じなのだとか。

 

そのネタが面白かっただけに、そのインタビューが驚きでした。こんなに面白いネタを作っても不安になるのなら、誰だってそうだろうな、と思ったものです。同時に、自分のネタなんて、そもそも次に何言うか分かっているから面白いのかどうか分からないんだろうな、と分析しました。

 

この時、明石家さんまが、自分の出ていた番組録画を見返してはゲラゲラ笑う、という逸話を思い出して、ハッとしたものです。

 

それを長いこと、自己愛のせいだ考えていました。

 

しかし、自分のネタを笑えるのは、自己愛とは真逆なのかもしれないな、と考え直しました。トークが次に何を言うのかすべて分かっていて、意外性も何もないのに笑えるのは、自分を突き放して、客観的に他人の目で観ることができるからこそ。

 

第三者の視点で自分をいつでも俯瞰できる、神の視点の持ち主、と言うと言いすぎでしょうか。

 

ブログも同じで、自分の書いたものを面白いと思えないのは、単に自己を客観視出来ていないだけかもしれません。

 

つまらないとわざわざ言ってくる人もいます。しかし閲覧者数がそれ以上に多いならば、大多数は面白いと思ってくれていると自信を持っても良いと思うのです。良い読者はだいたい控えめなサイレント・マジョリティーです。そう信じて記事を書けばいいのではないかと思うのです。

幸福な人間は、自分が幸せであることを喧伝しない

子育てをしていると、無性に幸福を感じることがあります。

 

仕事から帰ってきて、ベッドに寝転がり、スマホをいじっていると、子供が足元にやってきて、私の足をつつきます。いつもの隠れんぼで、それを機に立ち上がると、最近は後ろ向きにハイハイしながら逃げて行き、物陰から私の様子を見守ります。

 

その時にしみじみと幸せを感じます。

 

自分の収入不足を補うつもりではありませんが、家事は必ず毎日手伝うようにしており、帰宅して茶碗を洗って拭いたり、洗濯物を干したり、時々子供を風呂に入れたり、休日には時々朝昼とごはんを作ったりして、安い給料でやりくりしてくれる妻のストレスを少しでも軽減しようとしています。

 

それに妻はいつも感謝してくれます。ありがたいことに、狭いキッチンで手を変え品を変え、料理を作ってくれるし、何よりも大変な子育てを楽しくやってくれています。その他の家事も毎日明るくこなしてくれて、申し分のない妻です。

 

毎日が幸せなのですが、さて、こうした幸せを周囲に話しているか、というとそうでもありません。

 

まだ結婚していない人も周囲には多く、相手の立場を慮って幸せを語ることはほとんどないのです。そうしますと、以前若い同僚から、

「結婚て、つらくて大変そうですね」

ねぎらいの声をかけられました。私がヘビーな夜泣きでグロッキーだった頃で、たしかに間違いありません。しかしそれ以上に良いこともあるんだよ、と教えたかったものの、その言葉は飲み込みました。

 

幸せな人間が、自分は幸せだと言うことは難しいものです。やっかみも生じます。これだけ幸せな自分ですら、たとえば先日リンゴ日和。のひーたむさんが、

とツイートしたのを読んで、

「その若さでどうやって! う、うらやましい」

と思わず嫉妬したほど(笑……もちろん冗談ととらえてください)です。人間から嫉妬心を奪うことは難しい話です。

 

幸せな人間の存在は、周囲の人間にとってみれば不快な場合も多いでしょう。自慢と取られるのは面倒なので敢えて語りません。ところが不幸話は他人を喜ばせることはあっても、傷つけることはありませんから、

「結婚は地獄」

「子育ては不幸の連続」

という話だったら大声で話せます。結果、そういう話ばかりが世間を廻ることになるのでしょう。

 

そうしますと、若い人に、

「結婚や子育てって、面倒そうだなぁ」

と感じる人の多いこと。昔の私も結婚は大変だと思い、自分の立場では難しかろうと感じ、なかなか踏み切れませんでした。

 

また、はてな村の中では藤沢数希の言説にかぶれて、結婚は馬鹿馬鹿しい、コストだ、と考える人も多くいます。結婚してパートナーに恵まれて、幸せを日々感じている人の話はネットの上では多くないので、それも仕方のないことでしょう。

 

しかし、もったいない話です。パートナーに恵まれて幸せな結婚生活をしている人は大勢います。むしろそちらのほうが世の中には多いから、既婚者は結婚を他人に勧めるのではないでしょうか。私の周囲で、結婚が不幸だったと語った人は1人だけです。私が結婚してから、家庭がどれほど幸せかを誰もが語るようになりました。彼等は独身の私に遠慮して、これまで話さなかったのかもしれません。

 

自分が幸せであることをわざわざ吹聴して回る人もいます。しかしそれは大抵の場合、商売のためか、周囲に話すことで承認を得ないと、自分が幸福であることを実感出来ないためであることが多いのです(もしかすると、この私の記事自体も、その手のものかもしれませんが)。だから吹聴される幸福として、例えばアメリカのベイエリアで稼いでます、結婚は馬鹿のすることです、恋人は取っ替え引っ替えです、というようなキワモノばかりが大手を振ってまかり通りますが、実のところは羨んでもらいたいばかりに無理を重ねて心労を重ねていただけであったりします。

 

むしろ語られない平凡な幸福が世の中に多いのに、こうした凡百の幸福を知らず、例外的で運の要素の強い幸福を追い求めて、逆に不幸になる人は多くいます(昔の私です)。

 

恋愛を知らなかった子供の頃には、恋愛の喜びや性への渇望を知らなかったことを思い浮かべてください。

 

表には出てこない平凡でもかけがえのない幸福が数多く存在することを、知ってください。そして、その幸福を、幸福の渦中にある人間は語りたがらないということを、この記事を見かけた20代、30代の人に理解していただければ幸いです。

氷菜(=アイスプラント)がめちゃくちゃうまい件

アイスプラント」をご存知でしょうか。

 

最近日本でも栽培されるになりました。塩分濃度の濃い水でも栽培ができる特殊な野菜です。

 

葉っぱの表面を白い産毛がびっしり被っているために光を浴びるとキラキラと輝きます。まるで葉の表面が凍ってるように見えることから、アイスプラントと名付けられましたが、食べられるようになってまだ日は浅いようです。

 

元々の原産地は南アフリカ南アフリカの野菜は最近になってメジャーになったものが多いですね。たとえばノンカフェインで有名なルイボスティーとか。アイスプラントも、現地では細々と食べられていたようですが、あくまで塩分濃度の濃い水分でも育つ救荒作物として佐賀大学で研究されるまではマイナーな存在でした。

 

最近になって市場に出回るようになりまして、うちの近所の八百屋さんで1束80円で売っていましたので、妻が買ってきてくれました。

 

最初見たときの感想は、

「なんじゃこれ?」

まるで凍っているような外観で、食欲がわきません。

 

ところが食べてみるとめちゃくちゃうまい。シャキシャキとしての歯ごたえが絶品。しかもほのかに塩分を含んでいるため、ドレッシングも何もつけなくてもおいしいのです。

 

ただ、醤油を垂らすともっとうまいことに気づきましたね。とにかく、うまい。

 

妻にこれを毎日買ってきてよ、とお願いしちゃいました。

 

翌日妻が八百屋さんに聞いてところによれば、あまり売れていないそうです。なぜならアイスプラントの事をあまり知ってる人がいないため、勧めても敬遠されるのだそうです。

 

もったいないですね~。

 

なぜこんなにおいしい野菜が売れないのだろう? と考えて思ったのは、名前のせいじゃないか、ということ。

 

カタカナで、無機質な名前だと、親近感がわかないために多くの人が敬遠しがち。ピラニアと勘違いされたティラピアにイズミダイと命名したように、もっと身近な和名をつけるべきじゃないでしょうか?

 

試みに我が家では、「氷菜(こおりな)」と名づけました。よかったらぜひ使って下さい。そして、本当に生で食べても何で食べてもおいしいので、ぜひ氷菜、食べてみてください。

不倫が社会的に許容されなくなった理由

先日渡辺謙さんの不倫が週刊文春にすっぱ抜かれて、ワイドショーなどでも大きく取り上げられてます。

 

以前だったら日本人ハリウッドスターのような大物が不倫した場合、もっと社会的に許容されていたような気がしますが、今の世の雰囲気は違います。不倫する人に対して、しらーっとしているというか、冷たいというか。

 

社会全体に不倫する人間に対する嫌悪感が蔓延しているのを、ひしひしと感じるのです。これは何故でしょう?

 

いろいろな理由があると思いますが、私は二つ、インターネットによって社会が大きく変容したことが理由としてあるのではないかと考えました。

 

恨みの可視化

一つは、不倫された側、被害者の声の可視化です。

 

これまでの不倫に関する情報は、加害者側の発言の方がどちらかと言えば多かったのです。例えば芸能人やスポーツ選手、あるいは作家や政治家。

 

彼らが不倫された! という報道よりも、彼らが不倫している! という報道の方が圧倒的に多く、その時に雑誌やテレビで大きく紹介されるのは、不倫する側の論理でした。

 

もちろん、コメンテーターの批判は紹介されますし、被害者側の声が加害者を叩く材料として使われることもあります。

 

しかし報道のメインは、不倫した側の釈明です。

 

また、身近な話として、世間話で「不倫した経験者の自慢話」をよく見聞きしたものです。それに比べると、不倫された側がどれほどつらかったのか、を聞くことはあまりありませんでした。

 

人は自慢はしたがりますが、恥ずかしい話、忘れたい話は、できるだけ隠したがるものだからでしょう。

 

ところが、インターネットのお陰で、不倫被害者の声が多くの人に届くようになりました。2ちゃんねるまとめサイトやブログで、不倫被害者たちの、

「不倫されたことで数十年経った今でもほど辛い」

「信頼していた最愛の人から裏切られて、人生が激変した」

「ストレスで今でも嘔吐することがある」

という声を知ることが出来ます。インターネットを利用する時間の多い人は、必然的にそうした声に触れる機会が増えました。不倫がどれほどされた側の心に深い影を落とすのかについて書かれた長い記事を、今の20代から40代の人ならば一度は読んだことがあるのではないでしょか。

 

このことが、不倫に対する嫌悪感の蔓延に大きな影響を与えているのではないか、と思うのです。

 

 

因果応報の可視化

もう一つは、不倫する人間の「末路」を多くの人が知るようになったことです。

 

これまで芸能人の訃報が伝えられ、それと同時に晩年の寂しい様子が伝えられても、理由について事細かに語られることは稀でした。マスコミも、亡くなった人を叩くような真似は控えていたためであり、どれほど過去に妻を泣かせていようとも、

「◯◯がかわいそうだ」

という声ばかり、紹介されていました。

 

ところが今は、たとえば山城新伍が亡くなった時に、彼の女性関係がどれほどでたらめだったのか等、具体的に臨場感をもって、誰かが紹介してくれます。当時の週刊誌のネタから自著の内容まで、これでもかというくらい、知らせてくれます。

 

それを読めば、

「ああ、こりゃしょうがないな」

と思います。芸能人にとどまらず、政治家やスポーツ選手で寂しい晩年を迎える男性の多くが、過去に浮気で妻や家族をないがしろにしていたという事実を、人々は共有するようになりました。

 

また、多くの人のブログで、若い頃に浮気三昧だった人間が、どのような惨めな生活を送っているのか知るようになりました。

 

もちろん、どんなに放蕩の限りを尽くそうとも、幸せな老後を送っている人はいますが、これは統計上の「外れ値」のようなものです。

 

それを目標にするのは、自分を特別な存在だと信じる幼い思考の持ち主であることの露呈でしょう。

 

こうして不倫のもたらす弊害が社会通念となったことも、不倫に対する軽侮感、拒絶感を人々が共有するようになった理由の一つでしょう。

 

人をいじめていた過去を、自慢げに語ることがいつの間にか恥ずかしいこととなったように、浮気自慢をすることが、テレビでも次第に難しくなりつつあります。それは多分、社会にとっては良い変化なのでしょう。

鼻水の吸引を毎日やっています

子供が生まれて5ヶ月位たったときでしょうか、鼻水がつまって苦しそうにしていることがありました。

 

「鼻水がつまったら、吸い出してくださいね」

と看護師さんから言われていたため、鼻水吸引器で吸い出して上げたのですが、冬になると寒いせいか、それからたびたび鼻が詰まるようになりました。

 

どうするべきか、悩みましたね。

 

鼻水を吸い出してあげることで、子供の鼻水を押し出す力を失ってしまうのではないか?

 

吸引を習慣化することにためらいがありました。

 

ところが思い余って小児科医に相談すると、

「気にせず、鼻が詰まっていたらどんどん吸い出してもらっていいですよ」

とのことでした。また、毎日吸ってもらっても構わない、と書いている育児書もみつかりまして、今は毎晩、寝る前に吸い出すことが日課になっています。

 

よくよく考えれば、幼児は肺活量も少なく、鼻水をかんだり、すすって口から出したりすることが出来ないのです。幼児が出来ないことを親が代わってやってあげることに、ためらいは不要だったのです。

 

鼻水の吸引は一苦労です。泣き叫び、身体をくねらせ、どうにか逃げ出そうと子供は必死です。今では、私が鼻水の吸引を行い、妻がその間に子供の歯を磨き(もう子供の前歯が生えてきました。驚くほどの早さ)、短時間でことを済ませるようにしています。

 

慣れてくれればいいのに、こればかりはいつまでも子供が慣れてくれず、泣き叫ばれる毎日。毎晩繰り返される5分間の大騒ぎ。

 

隣近所にこの大騒ぎは聞こえているはず。虐待と思われていなければいいのですが。

 

 

隠れんぼ

最近のうちの子供は、隠れたふりをして私を驚かすことに夢中になっています。

 

ベッドに寝そべっていると、ベッドの足元へこっそりやってきて、私の足をつついてしゃがみます。私が、

「あれ、◯◯ちゃんがいないぞ」
と言いながら探すふりをすると、
「ああ!」
と言いながら喜色満面の笑みで立ち上がります。

「あれ、◯◯ちゃんがいた!」

と叫ぶとキャッキャッと喜びます。

それを何度も繰り返します。

 

この可愛い行動が始まるのが、決まって寝る前です。寝たくないから可愛い行動をして、寝る時間をなんとか引き延ばそうという魂胆なのでしょう。

 

本当はずっとつきあいたいと思う気持ちと、早く寝せなきゃ、という気持ちの間で揺れながら、しばらくの間、この子供の行動につきあうようにしています。

 

本当は帰宅した後にもっと遊んであげたいのですが、なかなか時間が取れません。

 

子供はご飯を食べるスピードが遅く、またお風呂にも入れなければならず、うんこをしたときはおむつを替えるのにも時間がかかり、その間に夫婦のどちらかが洗濯物を干したりたたんだり茶碗を洗ったりせねばなりません。子供とじっくりと遊ぶ時間は限られてしまいます。

 

いや、これは言い訳かもしれませんね。つきあう時間があっても、つきあうことに疲れてしまう場合も多いのですから。

 

準備万端、気力の充実した時に限って子供は寝てしまったり私と遊ぶのを嫌がったりします。なかなかうまくいかないものです。

片足を引きずりながらハイハイをしていた

子供が初めてハイハイをするようになったのは、生まれて9ヶ月経った頃です、

 

ところが最初の頃は、片足を引きずりながら這うというもので、それが数ヶ月続きました。いずれ治るだろうと思っていたのに、思っていたよりも長く続いて気になったことがありました。

 

ネットで調べると似たような症例がいくつか報告されていました。しかし最近のネットは似たような記事やQ&Aが多いです。業者がヤフー知恵袋の一例を元に記事を水増ししているのかもしれず、あまり当てになりません。

 

段々と背中の左右が非対称になっているような気もします。左足をひきずっていたため、左側に曲がるように誘導して、左足をどうにかして使わせるように仕向けたこともありました。

 

ところが杞憂でありまして、段々と高速で這うようになり、今では立ち上がり、当たり前のように歩いています。背骨も左右均等に成長しています。

 

左足を引きずりながらのハイハイが直ったのは、妻が実家にしばらく帰っていたのがきっかけだったように思います。うちは狭く、ハイハイで往復するのが難しいウサギ小屋です。それに比べると妻の実家は広く、自由自在に動くことが出来ます。お陰で、ハイハイを練習して、身体の正しい使い方を覚える事が出来たのでしょう。

 

子供の成長のためには、広い場所が必要です。