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クズリ通信

子育ての記録、人間関係論、シンプルな生活などについて。

『ど根性ガエルの娘』15話を読んで感じたこと

ど根性ガエルの娘』の第15話がWeb上にアップされています。その内容を紹介する記事を読みました。

 

gerusea.hatenablog.com

 

第1話がWeb上にアップされたときにも、はてなのホットエントリーとして挙がっていたのを私は覚えています。当時の記憶がまだ残っていただけに、今回の予想できなかった展開に私も驚きました。


第1話で「どん底に落ちた父と、再生した父と家族の話を描こうと思う」
と書いておきながら、実はその第1話自体が虚構だったのです。

 

この展開に対しては、以下のように否定的なご意見もちらほらとあるようです。

zuisho.hatenadiary.jp

 

思うところ各人異なるのは当然。作品をどう咀嚼するかは読者の自由に任されています。

 

しかし、同じく横暴な人間に生活をふりまわされた経験を持つ私は、作者の大月悠祐子さんにいたく共感しまして、
(そうだろうな)
(父が倒れなければ、描けなかったのだろう)
などと考えました。

 

ある共同体の中で独裁的にふるまってきた人間がいくら反省をしているように見えても、信用してはならない、と、いつの頃からか思うようになりました。人間は常に自己正当化をしながら生きていく存在である、という諦観が、根底にあります。加害者は加害行為を正当化しながら多分これからも生きていく。だから過剰に期待してもしょうがない、というあきらめです。

 

横暴な人間が反省したように見えても、もともと家族に暴力をふるうような利己的で感情抑制の下手な人間の性質が根本から変わることは、めったにありません。反省しているように見えても、年を取って昔ほどの感情の起伏がなくなり、行動を抑制できるようになっただけのことが多い。根本の利己的な部分は変わらないのではないでしょうか。

 

昔ひどい目に合わされたことのある人間から、許してほしいと言われ、和解を求められたことがありました。

 

そのとき私は、相手の昔の横暴な態度を責め立ててました。それに対してなんだかんだと反論するので、挙げる横暴の理由の一つ一つをつぶしていったところ、それまでしおらしく「反省している」「ごめんなさい」と繰り返していた相手は土壇場で態度を変えて、

「あんたはどれだけ自分が偉いと思っているんだ!」

と逆ギレしたのです。

 

現実はこんなものです。

 

世界は理不尽に出来ていて、弱肉強食が基本原則。そのルールが支配する幾つもの檻のような場所の中で、ある弱いものが強いものに牙を向かれた時には、従わざるを得ません。閉じられた共同体の中では逃げ出すことも叶わず、強者が暴力的だった場合は、ひたすら傷つけられ虐められる運命にあります。

 

そこで我慢して力を蓄え、やがて自分がその檻の中で弱者をいたぶる側に回るか、それとも逃げ出してもっとまともな場所へと移るかは、その人次第。私は逃げる方を選びましたし、他人にも逃げて別の場所へ移ることをオススメしますが。

 

逃げ出すことが出来た後、やや心の健康を取り戻した人は、加害者に反省を迫ろうとしがちです。根底には、シンドイからもう憎みたくないとか、家族だからやっぱり仲良くなりたいなどの気持ちがあるからでしょう。しかし、それは往々にして裏切られます。加害者が反省してみせるのは、弱くなってこちらに敵わないから降参してみせただけで、人間性を変えたからではないからです。

 

だいたい、まともな人間はどんな状況であれ、弱者をいたぶったりしません。

 

相手の過去の行為を許す必要など、そもそもないのです。加害者は自分勝手な暴君だからそうなったのだと理解して、あとは極力接触をひかえた方がいいんじゃないかな。その上で、もしもこちらに害を加えそうならば戦い、排除すればいい、と割り切ってもいいんじゃないですかね。